FMC東京 院長室

FMC東京クリニック 院長のブログです

なぜ、出生前検査に、罪悪感が伴うのか?

当院に来院される方々の中に、出生前検査を受けることについて、後ろめたい感情をお持ちの方が少なからずおられます。曰く、「主治医には黙っていてほしい。」「親には内緒で来た。」「検査を受けることを、まわりの人には言えない。」などです。なぜ、出生前検査に、このようなネガティブなイメージがつきまとうのでしょうか。

出生前検査・診断というと、まずよく言われることが、『命の選別』につながるということです。検査・診断の結果によって、その先には人工妊娠中絶という選択があるという点が、罪悪感につながっていると思われます。もちろん、そういった選択をされる方がおられることは事実ですが、だからと言って、検査そのものについて、『人工妊娠中絶することを目的とした検査』ととらえてしまうのは、短絡的ではないでしょうか。どうも世の中にはこのような短絡的な結び付けが蔓延しているように感じます。

・検査を受ける人のなかで、中絶を望んでいる人などいない

妊娠を中絶したいとはじめから望んで検査を受ける人はいません。できれば妊娠を継続させて産みたいと考えているからこそ、検査を受けるのです。検査の結果、中絶を選択することは辛い選択で、大きな心理的ストレスを抱えることになります。検査の結果、悩んで中絶を選択することについて、『安易な中絶』という捉え方をしてほしくないのです。

・検査そのものは、中絶を目的としたものではありません

検査の結果、その後どのような選択をするのかは、それぞれの人の信条、環境、事情によって違います。結果が出る前と結果が出た後でも、考え方に変化が生じることもあります。普遍的な正しい答などない場合も多いのです。いろいろと考えた結果、選択される答のうちの一つに、中絶があるに過ぎません。自分の人生の選択をする上で、得ることのできる情報を得て判断しようという、積極的な行動について、非難されるいわれはないはずで、後ろめたく考える必要はないのです。

・人工妊娠中絶は『悪』なのか

人工妊娠中絶をすることについて、『悪いこと』というイメージは根強くあり、人には言えないこと、表立って語るべきではないことであると感じている人は多いと思います。教育の現場でも、自分の体を傷つけることという扱いで語られることが多く、思春期からずっと、このイメージが植えつけられ、定着していきます。しかし実際に人工妊娠中絶の現場でいろいろなケースに接すると、そこには単純に『悪いこと』としてしまうことのできない、様々な事情が存在することがわかります。たとえば妊婦自身の命を守るために、妊娠中絶を選択しなければならないケースがあります(本来的には、母体保護法はそういうケースに対応すべく定められています)。いろいろな事情を抱えながら、『命の選別』をしなければならない人がたくさんいます。『命の選別』=『倫理的に問題』という単純な図式で考えるべきではないのです。

・そもそも『命』が絶対的価値なのか

『命』が普遍的・絶対的価値であるという考えは、受け入れやすいし、そのこと自体は間違いではないと思います。しかし、たとえば終末期医療の現場では、「生きていさえすれば良いのか」という問題は以前から取り上げられていますし、さまざまな重度の先天性疾患の存在を知ると、『命』の価値という考えにも揺らぎが生じます。そして、受精卵や初期胚を扱う医療の発展によって、『人』はどの段階からが『人』なのか、どの段階から『命』として尊重しなければならない対象なのか、という命題も生じてきます。今自分が生きている狭い範囲のものごとだけを基準に考えるのではなく、もっと幅広い視野を持って、深く考えてほしいのです。単純化して、自分が正しいと感じること以外は受け入れられないというようには、なってほしくないと感じています。

 

 出生前検査を受けるにあたっては、罪悪感を感じていないといけない、その気持ちを乗り越えないといけないという考えを持っている医療者も少なからず存在するようです。この検査の施行に際して、そういった考えをベースにレギュレーションを行おうという考えが、厳しい規制のベースにあるとしたら、それは間違っていると私は思います。こういう考え方は、実際に検査を扱う立場である医師に多いように感じます。検査を受ける立場にある妊婦さんやその家族に対して、上の立場から指導しようという気持ちが透けて見えるような医師たちがいたりします。中には、遺伝カウンセリングを行う立場にある医師でありながら、そういう考えがベースにあるのではないかと感じられる方もおられます。

中絶は『悪』→その『悪』の道に足を踏み入れることが出生前検査→だから出生前検査は『悪』 という単純な図式が、この国ではかなり多くの人の頭の中に植えつけられていて、このことが出生前検査に罪悪感が伴うことにつながっているようです。そして、マスコミの論調(すぐに『命の選別』という言葉を安易に持ち出してくる)や、特権階級的な志向を持った医師の言動が、これを助長しています。

それでなくても妊娠には不安がつきまといます。ほとんどの方は、順調に経過するのがあたりまえと思っていながらも、身近に順調ではないお産を経験した人がいたり、出血その他、予想していなかった症状が出たり、本当に順調に経過して赤ちゃんが元気に生まれてくるのか、心配になることは多いのです。そんな中、少しでも心配を減らすことが何らかの形でできるなら、役に立つ検査があるのなら、それを受けたいと思うのは自然なことだと思います。検査そのものは、もっと主体的に選択できる形で、うけられる機会を提供すべきだと考えます。もし、検査を受けることで分かる情報が、自分にとって必要でないなら、検査を受けるということ自体が自分の考えに反することであるなら、検査を受けないという選択をすれば良いのです。検査を受けないという選択権は保証して、しかし検査を受けたいという希望には広く応えられる体制づくりが望まれます。妊娠中絶の議論は、検査をする/しないという議論とは少し切り離して、別次元で議論すべきです。

私は、人工妊娠中絶については、忌み嫌うべきこと、隠すべきこととしておくのではなく、もっとオープンに議論されなければならないと感じています。母体保護法そのものの内容や運用のされ方、母体保護法指定医の指定の仕組みや教育・講習の内容など、今のままで良いとは思えません。中絶がどのように扱われ、どのように行われているか、そこにはどういった問題があるのか、一般の方々にはほとんど知られていないと思います。これまで長い間、オープンな議論が行われないまま、粛々と密室で取り扱われてきました。いろいろな診断技術や生殖医療の方法が開発され、これに伴って、生命倫理の分野の命題はいくつも新たに生じてきている時に、私たちはこの議論を避けて通ることはできないでしょう。