FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

医師たち同士の間にある壁。どうにかならないのか。

今年6月23日に以下の記事を書きました。

NIPTの議論のなかに透けて見える本音。解説しましょう。(1) まずは歴史的流れから - FMC東京 院長室

そして、この記事の最後に(つづく)と記載しました。しかし、この後の続きは途中まで執筆したところで止まり、公開していません。

 この頃、いろいろな考えが頭に浮かび、その中のどれを記事として公開するかを選択する中で、この続きの優先順位が下がってしまったからです。しかし、この続きがあったほうが業界の事情を知らない人には良かったかもしれないと少し後悔しています。

 なぜこのようなこと書くかというと、またいろいろと業界内部での動きが見えてきているからです。ただ、続きを今新たに書き足して出すのはあまりタイムリーな感じがしませんので、もう少し全体的なことを書きます。

 一般にはあまり認識されていないことではないかと思うのですが、出生前検査に関わる診療科の医師にも様々な違いがあります。そして、その考え方や基本姿勢には決定的と言っても良いほどの違いを感じることも多々あります。このことが今ある問題を複雑にしているし、医師たちの対立構造が妊婦さんたちを辛い立場に追いやっているとも言えます。

 この違いや対立はやや複雑な構造をしています。なぜ複雑になるかというと、完全な対立構造ではなく、中途半端な立場や曖昧な立場が混在しているからです。また、対立するつもりはないにも関わらず、誤解や勝手な推測に基づいて敵対視されてしまうこともあります。したがって、これをわかりやすく説明することはすごく難しいのですが、ここではそれを試みてみたいと思います。

 まず、対立があるとすればどういう対立なのか、最も明確にできるとすればそれは、プロライフプロチョイスの対立でしょう。これは基本的にはアメリカにおける中絶の是非の論争なので、日本の医師たちの考え方とは一致していない部分もありますし、この対立は厳密に見れば対立軸がややずれていて、何を最も重視するかという立場の違いですが、感覚的にはこのそれぞれの立場に近い形での対立が我が国においてもメインなのではないかと思います。ここでは、この二つの立場についての詳しい説明は省きます(また、いろいろな解説があるので特にリンクも貼りません)ので、読者の皆さんはご自身で調べていただけるとありがたいです。

 それで、これを日本にちょっと乱暴に当てはめてすごく単純にいうと「産婦人科医」と「小児科医」の対立という図式があります。特に私が強く感じるのは、私自身が産婦人科医であるからかもしれませんが、「小児科医」側からの「産婦人科医」に対する不信感です。

 産婦人科医は、妊娠・出産を扱う中で、ずっと人工妊娠中絶を扱ってきました。人工妊娠中絶には、優生保護法の時代から母体保護法への改正という歴史的流れがあり、いろいろな論争があるわけですが、どうやって中絶するのか、どういうケースであれば中絶できるのか、といった判断は、ずっと産婦人科医の手に委ねられてきたわけです。つまり胎児の生殺与奪の権限を産婦人科医が握っているのです。

 出生前診断がまだ発展していない頃には、胎児の問題をもって中絶を選択することはなかったはずです。しかし、だんだんと胎児の問題がわかるようになるとともに、その情報をもとに中絶を選択する(厳密には中絶を行うことのできる要件に「胎児条項」は含まれていませんので、「経済条項」を転用してですが)事例が増えてきました。それでも、出生前診断はそれほど確実ではないし、日本では普及が遅れていましたので、数多くの病気を持った赤ちゃんが生まれてきています。そういったケースの中には、残念ながら生まれる前に亡くなるケース、生まれてきたけれどどうにも治療ができないまま亡くなったり、命は取り留めても親に見放されたり、いろいろなケースを経験してきました。将来への希望の持てない妊娠を継続して、辛い出産を乗り越えなければならない妊婦さんたちや、妊娠を中絶する選択だけでも辛いことなのに、その選択が実は法律違反だと言われたり、グレーな領域だと言われコソコソ隠れるようにしなければならない妊婦さんたちと向き合ってきました。

 小児科医は、いろいろな病気や障害を持つ赤ちゃんを見守り、診断・治療し、その成長を見届けてきました。そして、治療成績を改善し、いろいろな問題を克服し、命ある素晴らしさを実感してきました。病気や障害を持ちつつ社会に適合するすべを考え、本人や家族にずっと寄り添ってきたわけです。そのような立場から、胎児に病気や障害があるからといって、命を粗末にすることは許されないという気持ちを強く持つようになりました。

 つまり、産婦人科医と小児科医とでは見ている世界が違うのです。そして、お互いの見えていない部分をよく見ようという努力も足りないまま、お互いを「よくわかっていない。」と批判し合っているのです。

 前にも書きましたが、「小児科医」が「産婦人科医」に対して持っている不信感が、かなり根強いです。病気や障害のある子どもたちと日々向き合っている小児科医は、その当事者(本人及び家族)が、社会の中で差別を受けたり、偏見の目で見られたりしている事実に向き合ってきました。同時に、お子さんが生まれてきたときやその後などに産婦人科医から心無い対応を取られた事例なども見ています。そして産婦人科医はそういった問題を見つけて中絶するという事実に直面したとき、病気や障害を持つ方々やその家族が、自分たちの存在を否定されるという危機感を持ち、これに小児科医が同調・サポートする立場になったのでした。ずっとお子さんたちに寄り添ってきた小児科医は、お子さんたちへの思い入れが強ければ強いほど、出生前検査とそれに引きつづく妊娠中絶に反対します。小児科医のそういった姿勢は、病気や障害を持つ当事者からヒロイックに扱われることさえあります。中絶=断種をしようとする悪い産婦人科医とそれを許さない正義の小児科医という図式です。

 このようになってしまうことには無理もないと思うこともなくはないのです。実際に産婦人科医の中には、実に単純に胎児に問題がありそうだというだけで中絶を勧める医師も少なからず存在するからです。こういうと語弊があるかもしれませんが、地方へ行けば行くほど、また年齢の高い医師ほどその傾向があるように思います。

 しかし実際にはそんな単純なものではありません。上記のような図式は、どちらかというと過去の古い時代のものであり、最近は産婦人科医の中にも中絶することを良しとしない、だから検査自体も行わない、どんな場合でも産み育てることを前提とした対応しか行わない、という医師が増えてきているのです。

  妊婦さんが、出生前検査のことを外来で質問しようとすると、嫌な顔をされたり、倫理的に問題のある思想を持った悪い妊婦だというような扱いを受けたりする事例が多いのです。中絶は扱わない、あるいは胎児の異常を理由とした中絶は「違法だ」と突っぱねる医師も増えてきています。産婦人科医を信頼していない小児科医が思うほど、産婦人科医は「安易な中絶」を行おうとはしていないのです。この点で、実は産婦人科医の中にも思想の違いに基づく壁が存在しています。特に人工妊娠中絶をタブー視する風潮が強まってきている印象を、私は持っています。学会発表などでも、「妊娠中絶」という用語を使用せず、「妊娠を中断」という表現をする医師が多くなってきていることに最近気づきました。学校教育の場で、「命を粗末にしてはいけない」という文脈で妊娠中絶が「良くないこと」という扱いで教えられていることが多いことが影響しているのではないかと考えています。特に日本社会は、幼少期から思春期といった人間形成の時期にも、青年期や成人してからも、女性の権利が尊重されない状況に置かれていることも影響しているのではないでしょうか。

 小児科医も皆同じような思想を持っているわけではありません。どんな病気や障害を持っていても、全員が生まれてこなければならないとは考えていない中絶是認派の医師もたくさんいます。しかし、出生前検査に関する問題を論じる立場や指導的な立場にいる大御所やその弟子たちには、胎児の命を奪うことは許されないという考えの人が多いので、そういう意見が目立ってしまっています。

 妊婦の管理や胎児の検査は、産婦人科医が行う仕事です。検査技術・方法の開発とその導入に関連して、時には批判を受け、国の指導が入りながら、産婦人科医たち自身が問題意識を持ち、コントロールしつつ進めてきました。それなのにNIPTに関してのみ話がややこしくなり、一部の強い思い入れのある人たちを中心とした学術団体に押さえつけられていることに業を煮やした日本産科婦人科学会が独走しようと動いたことは、やり方がよくなかったとは思うものの、理解のできる話だと思ってはいます。

 根本的な問題は、医師たちの中にある「偏狭さ」なのではないかと考えています。

 中絶反対派の医師たちにも、中絶是認派(決して“中絶推進派”ではないはずですが、反対派の人たちには、そういう思い込みもありそうです)の医師たちにも、双方に偏狭さがあるように思います。そこには自分の思想が「絶対的に正しい」という思い込みがあります。そして、そういう意識の強い医師ほど、人の意見に耳を傾けません。医師同士でもそうですし、医師以外の人たちに対しては“指導すべき人たち”という扱いになりがちです。病気や障害を持つ子どもたちに、いつも優しく温かい眼差しを注いで、ヒューマニズムにあふれたような医師であったとしても、このような思い込みのある医師は、自分の考えと違う意見に耳を傾けようとはしない頑なさを持っています。

 日本人は議論ができないという特性があることも関係しているように感じます。自分の意見を明確にし、人の意見に耳を傾け、議論を重ねて結論を導くということが下手なので、玉虫色の結論のまま運用したり、多数派の形成に力を注いで力で解決を図ったりします。出生前検査・診断の問題は、いろいろな立場や考え方があるデリケートな問題です。これに関係する人たちは、医師や医療従事者の側にも当事者(それは病気や障害を持つ人たちやその家族もそうだし、これから子どもをもうけようとする人たちやすでに妊娠している人たちも含まれます)の側にも、多様な立場があり、考えがあり、思想があります。単純に「これが絶対に正しい」という答えは導き出せないものだと思います。もし自分の考えが絶対に正しいと考えているとしたら、それは強い思い込みにすぎません。

 出生前検査・診断に関する議論は、結論を出すことを目標にするのは無理があると感じています。これは永遠に続く議論です。様々な立場からの意見に(それがたとえ自身の思想に合致しないものであったとしても、謙虚に)耳を傾けつつ、お互いに尊重しつつ、しかし本当はどうすることが最も良い選択なのかについては常に考え、その都度修正を加えつつ、推進していくしかないではないかと私は思うのです。