FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

Frau記事 出生前診断で「産まない決断」をした母の悲痛 を読んで

いろいろと忙しくしているうちに、あっという間に年末になってしまいました。気づけばこのブログも、11月は記事を出せないままになっていました。全くなんの話題もなかったわけではなく、私たちの周りでは日々いろいろなことが起こっているのですが、きちんと記事として書き記す時間がない!しかし、かきかけの記事を放置しておくのも良くないので、本日から少しずつ整理して出していきたいと思います。

 

 出産ジャーナリストとして活躍しておられる、河合蘭さんが、現代ビジネス-FRaU(講談社)に連載しておられる記事「出生前診断と母たち」の最新回が話題になっているようです。

gendai.ismedia.jp

 これまで、出生前検査の結果を受けて妊娠中絶を選択された方の物語が表立って取り上げられることは少なかったので、この記事のような内容にはインパクトがあったのだと思います。私は、この記事の物語の主人公の方の次の台詞が印象的でした。

「私も、自分が経験するまでは中絶というものは、望まない妊娠をした人がすることで、そんなに葛藤しないものだと思っていました。でも実際は、まったく違ったんです。感じ方は皆少しずつ違うかもしれないけれど、赤ちゃんへの愛おしさによって、その後、長く苦しむ人が一定数いることは確かなんです」

この台詞を読んで、中絶に関連した二つの大事なポイントを思い浮かべました。

まず一つは、
1. 中絶という選択に対する、ステレオタイプな否定的イメージを打破することが必要だという点です。

 人工妊娠中絶に対しては、「望まない妊娠だったから堕した。」「胎児に異常が見つかったから堕した。」という単純思考で捉えている人が、かなり多いと思います。そして、その選択をした方に対して、よくないことをした人という目を向けます。実際に妊娠する年齢の女性であったこの方自身が、そのようなイメージを持っておられたようですので、妊娠が身近でない年齢層の人たちにとっては、よりそういうイメージがあるのではないでしょうか。
 妊娠中絶は、教育の場でも悪いイメージと結びついているように思います。それは、学校教育でも家庭教育でも同様にあります。学校教育の現場では、命の大切さ・尊さを学ぶ機会があり、そのこと自体は大事な教育テーマだとは思うのですが、その流れの中で、「中絶=命を奪うこと」といった定義づけがなされ、「妊娠中絶は良くないこと」というイメージが作られているように感じます。すでに生まれてきて独立している命と、まだ妊婦のお腹の中にいる命について、同列で語るべきなのかといった難しい命題について深い洞察をすることなく、ただただ絶つことは良くないこととしてしまわないことが大事だと思います。妊婦診療の現場にいると、いつもこういうことを考えるのですが、子どもたちに命について教える人たちに、そういう視点、視野の広さがあるかどうかが気になるのです。義務教育を担う小中学校の先生が、妊娠中絶に否定的なイメージを持っていることが多いのではないかと感じることがあります。そういうイメージが定着すると、妊娠中絶をすることになった女性が罪悪感を背負うことにつながります。性教育や避妊法の普及が不十分なこの国で、心と体に負担をかけて妊娠中絶した女性が、ひとり罪悪感を背負わされている現状がこの国にはあると思います。
 人工妊娠中絶に否定的なイメージを持っている人は、産婦人科医の中にも多いようです。これはある意味教育の成果なのかもしれませんが、若い世代ほどそういう感覚が浸透しているようにも感じます。出生前検査・診断に対して慎重な立場の小児科医の中には、産婦人科医は『安易な中絶』を許容している、あるいは推進しているというイメージを持っている人がいるように思いますが、現実にはそういうものでもないのです。
 世の中には、「中絶する人・した人=命を大切にする気持ちのない人」という単純な見方をする人がある一定数います。そんな中から、『安易な中絶』という表現も出てきています。もちろん、世の中にはさまざまな考え、思想や信条の人がいますから、命の捉え方にも温度差があって、比較的抵抗なく中絶する人もいるかもしれません。しかし、中絶することが女性にとってどれほど負担になるかという視点からの論説はあまり多くはありません。中絶についてあまり一方的な見方で済ませて欲しくないと思うのです。

もう一つは、
2. 中絶をタブー視しないできちんと考えること、ちゃんと規定することが必要という点です。

 この点については、このブログでも何度か取り上げてきました。
 この国では、妊娠を中絶することは、基本的には堕胎罪に問われる犯罪です。しかし、母体保護法という法律によって、指定医師の判断のもと罪に問われずに行うことが可能になるものがあるという形です。元々がそういう扱いであることに加え、ひとつめで論じたような状況もあって、どうしても『中絶=罪』という意識が根強いように思います。その一方で、あまり表立って語られることはないものの、実際に妊娠中絶をしている人の数は実はかなり多いという特徴もあります。この背景には、性に関する教育などが不十分であるために、避妊の知識や避妊法の選択肢が乏しく、望まない妊娠をしてしまう女性がそれなりに多い現状があったと思います。その結果、「中絶はいけないことだけど、違法という話ではなくて、実際には結構してる人いるよね。」という認識になり、「でも、良くないことなので、隠れてこっそり済ませておこう。」という行動につながるのです。その結果、中絶の経験は罪悪感につながり、経験者は体と心に傷を負ったような状態になります。
 それが当たり前と考えている人も多く存在します。産婦人科医の中にもそういう考えの人はいて、「中絶する人はある程度罪悪感を持ってもらわないといけない。」と考えている人さえ存在します。でも本当にそうなのでしょうか。
 人工妊娠中絶の主体となる人は誰なのでしょうか。妊娠している本人ではないのでしょうか。思想的にはいろいろな違いや意見もあるとは思いますが、少なくとも身体的には、妊娠している本人の問題に他なりません。もっと妊娠している本人が主体的に決定に関われるようにならないのか、そして、今の法律が現実に合致しているのか、妊娠週数で線引きをしている今の考え方は正しい考え方なのか。
 議論しなければならないこと、議論を経て改善していかなければならないことはたくさんあるはずだと思うのです。しかし、これまでは、なんとなく議論が避けられてきました。「運用上うまくいっているのだから、それで良い。」「余計な議論を呼び起こしても、やりにくくなるだけだ。」という考えが蔓延していたように思います。私もこれまで何度か、母体保護法指定医の研修会に参加したことがありますが、本質的な問題意識に基づいて、中絶の問題をなんとかしようという雰囲気は全く感じられず、がっかりすることしかありません。
 中絶をタブー視している雰囲気は、産婦人科医の中にも感じる場面があります。例えば最近、気になっていることとして、学会発表で使用されている言葉の問題があります。学会発表の症例報告などで、胎児に異常が見つかったケースにおいて結果的に人工妊娠中絶が選択された場合に、その臨床経過をプレゼンテーションする際に、なぜか「人工妊娠中絶」という言葉が使われず、「妊娠中断」という言葉に置き換えられている事例が最近になって増えてきているようです。発表している若手医師がそう記したとしても、指導医が確認しているはずなので、指導医世代(おそらく私と同世代かそれよりも少し若い医師たち)の間にも「人工妊娠中絶」という言葉を忌避する傾向があるのではないかと感じています。産婦人科医が妊娠中絶という言葉さえ堂々と口に出せないような状況で良いのだろうかという危機感に似たものを感じます。

また、最後の言葉が少し気になりました。「赤ちゃんへの愛おしさ」という部分です。
 近年、超音波診断装置の性能がどんどん改善され、妊娠の比較的早い時期から、胎児がしっかり人間らしい形になっていることを、わかりやすく表示することができるようになりました。このことは、心配の少ない妊婦さんやそのパートナー、家族にとってはたいへん喜ばしいことで、妊娠の実感が湧くし、母性の喚起にもつながります。しかし、私が気になっていることは、人は人間のような形のものを見ると擬人化して考えてしまうという現象は、胎児にもあてはまると感じることです。私たちが妊娠初期超音波検査を行っている妊娠12週ごろには、胎児の外見は人間の形になっていて、これを3D/4D超音波で表示することが可能です。これを表示してしばらく見ていると、受診者さんやそのご家族の頭に浮かぶのは、「何をしてるんだろう。」「何を考えているんだろう。」ということのようですし、胎児が動きを止めると「寝ちゃった。」とおっしゃり、それまでは起きていたと認識されていることがわかります。しかし、実際にはこの時期の胎児はまだ脳はほとんど発達していませんので、何かを認識できるわけでもなければ、まだ寝たり起きたりといった脳の機能に関わるような現象は生じていません。胎児は、人のように見えるけれども、まだようやくそれらしい形になってきたというだけで、とても『人』と言えるような段階ではないわけです。『人』はいつから『人』なのか、『命』はどの段階からが“本当の”『命』なのか、といった問題は永遠の議論ですが、少なくとも妊娠12週ごろの胎児は、まだまだ何か(例えば痛み)を感じたりはできないし、ましてや『起きる』などという高度な脳機能を発揮する段階には達していない、非常に未熟な存在であるということを冷静に認識する視点が必要ではないかと感じています。
 「赤ちゃん」という表現も気になっています。本来、「赤ちゃん」とは生まれてきたときの呼び方のはずなんです。自力で呼吸して、酸素を取り込んで、皮膚に赤みがさした状態を言葉にしたものが「赤ちゃん」なのですから。お腹の中の胎児について、「赤ちゃん」と呼ぶことは、本来的には間違っている表現だと思います。生まれてくるところ、生まれてきたところを想像して、無邪気に「おなかの赤ちゃん」と表現することは、決して悪いことではないという意見もあると思うし、あまり目くじらをたてるつもりもありません。しかし、あまりに早い段階から擬人化して、思い入れが強くなりすぎてしまうことも、(それは科学技術の進歩に伴う自然な流れなのかもしれませんが)いろいろな問題が生じたときに対処を困難にすることにつながる可能性もあるのかもしれません。

 私たち医療を提供する側の人間も、超音波検査を行う際に、単に胎児が動いているところを見せて喜んでもらうことにフォーカスするのではなく、超音波で観察することの意味や意義、見えているもの・ことの解釈といった事柄について、専門家としてしっかりと説明し、理解を深めていくことが必要だと感じています。