FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

出生前検査を普及させない方が良いという声に、癌告知の過去を想う。

毎日、出生前検査・診断の現場に身を置いて、理不尽な現状に翻弄される妊婦さんやそのご家族をみていると、この状況がいつになれば変わるのか、どうすれば変えることができるのかということを、いつも考えます。

同じように変わらなければ・変えなければいけない物事が、この国にはたくさん(たとえば、受動喫煙対策、ジェンダーギャップの問題、子宮頸がんワクチンの問題など、世界から取り残されている諸々)あると思うわけですが、そういった諸々に考えを巡らせていて、ふと思い出したことを書き留めておこうと思います。

最近、芸能人や有名人が、癌に罹患していることをカミングアウトされたり、受けている治療や生活ぶりが話題になったりすることが多くなりました。こういった話題がオープンに語れるようになった背景には、病名や病状について、本人にきちんと伝えることが進んできたことがあります。若い方には想像がつかないかもしれませんが、少し前は、そうではありませんでした。

私が医者になった約30年前、私たち研修医は、癌患者には病名を伝えるべきでないという教育を受けました。私たちの先輩医師たちにとっては、癌という病名を伝えないことが、当たり前の時代だったのです。では、担当患者に癌の診断がついた時、どう対応していたのか?医師たちは家族を呼んで、家族にのみ病名を伝え、本人には言わない方が良いと伝えていたのです。本人にはもっともらしいウソの説明をして、医師たちと家族とで、本人が亡くなるまでウソをつき通したのです。そんなことが可能なのか、と思うかもしれません。今のような多くの情報にアクセスできる時代では、考えられないと感じるかもしれません。しかし当時は、病気になって治療を受ける患者さんは、よくならない病状に疑問を感じつつも、医師や家族のいうことを信じるしかなかったのです。治療方針に関しても、特に選択の余地はなく、専門家である医師のいうことを受け入れるのがあたりまえでした。しかし、これはどう考えても無理があった。副作用の強い強力な化学療法(今ほど副作用対策も進歩していなかったので、それは辛い治療だったし、長期にわたって入院を続ける方も多くおられました)を受けつつ、医師や家族は本当のことを話してくれていないのではないかという疑心暗鬼の中、だんだんと弱っていく癌患者さんたちを見ていて、このやり方は人間的でないと感じていました。

癌告知の問題はそれ以前から話題には上っていたものの、日本人は自立心が強くないという認識(それは遺伝子にプログラミングされた民族固有の特質なのか、教育のせいなのか、単なる思い込みなのか)に基づいて、告知を積極的に進めようという機運は盛り上がりにくかったし、実践する勇気のある人も少なかった。またある個人が実践しようとしても、周りの医師たちやスタッフが抵抗すると、物事のやり方を変えることは容易ではありませんでした。私自身、いろいろな工夫をしつつ、しっかりと告知できる体制をつくっていくことに力を注いでいた時期があります(なんといっても、消極的な医師たちにどう受け入れられるようにしていくかが最も大きな課題でした)。

しかし、時代の要請は、この状況を徐々に変化させていきました。海外での実践経験や多くの実例、数々の議論の元に、医療の現場ごとの温度差やスピード感の違いはあったものの、癌という病名を口にすることがタブーであった時代は終焉を迎えたのです。はっきり伝えてほしいと主張する人も増え、また自分の病状について公表する有名人も出てくる中、古いやり方を貫いていた医師たちも、重い腰を上げざるを得なくなったという面もあったでしょう。今では、病名の告知はあたりまえで、その進行度、治療方法、予後予測、余命告知なども普通に行われるようになりました。(ただし、医師の情報伝達能力を上回る、不正確な情報拡散手段が普及してしまったために、また新たな混乱が生じていることが問題として浮上しています。)

この国の出生前検査の現状がこのままで良いのか考える中で、この経緯について思い出し、似たようなことなのではないかと感じたわけです。今年初頭に、周産期医療の専門家の集まりの場で、出生前検査に関する情報提供の是非についての議論があり、情報提供にすら消極的な考えの人たちが多くおられることに衝撃を受けました。以下の記事に記載したものです。

周産期学シンポジウム 第35回 周産期医療における「遺伝」を考える - FMC東京 院長室

医療関係者の側にいて、専門家ではない当事者(出生前検査においては、妊婦やその家族)が、情報を得た結果好ましくない選択をする可能性があるから、知らないでいた方が良い、わからない方が良い、と考えることは、驕りではないかと思うのです。専門家でないからといって、何もわからない人たちではないはずです。自分たちなりに情報を整理して、考えて考え抜いて、結論に達するはずです。もちろん、いろいろな考えの方がおられますから、これは明らかに間違った選択だと思われるような結果になってしまうこともあり得るでしょう。それはたいへん辛い経験になりますが、そういったことも受け入れなければならないと思います。そして、少しでもそういうことを減らすためには、やはり医療者側が物事をブラックボックスの中に入れて、自分たちだけで情報をこねくり回すのではなく、きちんと情報が伝わり、納得のいく決定ができるようにするための技術を磨く以外にないのではないでしょうか。

出生前検査・診断の領域の知識や技術は日進月歩で、しかしわが国では一部の人たちの間で極端なコントロールをし続けた結果、日本と世界との差はどんどんと広がる一方になっています。日本にいれば生活上大方のものは手に入りますから、日本にいて不便を感じることはありませんが、ことこの分野の検査については、単に知らないだけで世界との差を知ると驚くことがたくさんあるはずです。次回からしばらくは、この点に絞って話題提供をしたいと考えています。