FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

今年一年を振り返って(後半) 二人の恩師の話

振り返ってみると今年前半は、何か活路を見出せないかという気持ちがそれでも強かったように思います。しかし、後半はもう本当に日々をこなすだけだったような感じがします。やはりコロナ感染の影響が大きかったですね。

リモートになった学会

 例年なら秋になると、学会シーズンで、いろいろな場所に出かけて行っては、たくさんの話を聞き、議論をして、新たな刺激を受けて帰ってくるというのが、例年の慣わしでした。自分の発表を作り、人の発表に意見を述べ、新しい発見があり、次の仕事へのモチベーションとなる。同時に、いつもと違う環境に身を置き、はじめて見る景色を堪能し、美味い酒と料理に舌鼓を打つ。これがなくなりました。

 学会は全てweb開催となりました。自宅や職場にいながら、リアルタイムでもオンデマンドでも参加が可能で、気になる講演は何度も聞き直すことができるなど、そのメリットは大きい部分もありました。何より、春から夏にかけての収入減を取り戻すべく、診療を止めることなく行いつつ、学会にも参加できることは助かりました。しかし、昼は診療、夜や休日や隙間時間に学会参加という日々は、余裕のない疲れる日々でした。非日常だった部分を日常の中に組み込むという無理がありました。いくつかの学会に参加してみて、リモート開催でよくなった部分と、よくなかった部分とが実感できましたが、多くの同業者も同じ感触を持ったようでした。今後の学会開催のあり方は変わっていくだろうと実感できます。私たちは環境の変化に合わせて、適応していくことができる。これからは適応力が勝負を分けることでしょう。

コロナ疲れとそこから脱するための行動 

 私にとってラッキーだったことは、前回も書いたようにプライベートで幸せなことがいくつか続いたこと、そして、ありがたいことに居心地の良い自宅の環境があったことです。これらがなかったら、ストレスの溜まる日々だったことでしょう。世間の人たちが、いわゆる“コロナ疲れ”という状態に陥ることが容易に想像できます。本当に家族のおかげで、私のこの一年は、例年とは違う形でしたが、充実したと言える一年になりました。

 それでも、これだけ長い期間我慢の日々が続くと、なんとなく全てが惰性に陥る感じがして、新しいテーマを見出して調べようとか、次の学会では何をアピールしようかとか、そういうモチベーションが落ちるのを感じました。だから仕事面に関しては、停滞の一年だったように感じますね。論文が一本出せましたが、やる気があればあと2本ぐらいは手をつけることができたはずでした。

 ふと思いついて、院内で行っている症例検討などのミーティングを、ZOOMに繋いで院外の人にも参加していただく形にしてみたことはモチベーションの回復に役立ちました。みんなで共有して勉強する機会を持つことが、新たな課題を見つけることにつながりました。なんでもやってみるもんです。危機的状態から脱するには、何かを実践してみることが大事ですね。また来年からは仕事頑張ろうと思います。

恩師との静かな別れ

 今年後半、私にとって大事な二人の恩師が、この世を去られました。

 お一方は、高田道夫順天堂大学名誉教授です。私が所属していた産婦人科学教室は、研修医を終える頃、まさにボロボロの状態に陥っていました。もうこんなところにはいられない、移籍しようと本気で考えていた時に、教室を立て直すべく就任されたのが高田先生でした。この先生の熱意のおかげで私は教室に残り、吉田幸洋現順天堂浦安病院院長とたった二人ではじめた「胎児臨床プロジェクト」が、今や立派になった順天堂大学産婦人科学教室の周産期部門のスタート地点なのだと言えるのです。高田教授は瀕死の教室をリセットする役割を担われ、後継教授に故桑原慶紀教授を招聘することに尽力されました。この桑原先生が、教室員を増やし、臨床・研究・教育のいずれの面でも堂々たる教室に変貌させる大きな力を与えてくださったのです。

 高田先生があの時教授に就任されなかったら、今の私はありません。おそらく小児外科医になっていたのではないかと思います。先生は、退官された後も教室の行く末にいつも気を配っておられ、教え子たちにも常に目配りしてくださいました。表向きは厳しい姿勢を貫きつつ、裏では優しさの滲み出るお人柄でした。

 もうお一方は、和賀井敏夫順天堂大学名誉教授です。和賀井先生は、超音波医学のパイオニアで、世界に先駆けて超音波診断装置の着想から開発、実用化を進められた方で、2006年には日本学士院賞を受賞されています。NHK『プロジェクトX』でも取り上げられています。

 私と和賀井教授との出会いは、順天堂大学に入学して所属したラグビー部の1年生として当時部長を務めておられた先生にご挨拶した時でした。私は、ラグビー部員として6年間、そして専門課程の時には、超音波ゼミのゼミ生としてもお世話になりました。産婦人科医になった私に超音波診断の指導をしてくださった竹内久彌名誉教授が、産婦人科領域の超音波診断装置の研究に着手されたのも、和賀井教授の門下生としてでしたので、私にとって和賀井先生は恩師の中の恩師です。超音波診断は誰がなんと言おうと私の仕事の核そのものです。毎日毎日超音波で胎児を詳しくみる仕事は、和賀井先生の存在無くして想像もできないものと言えるでしょう。

 学生の頃の私からみた先生は、監督をはじめ屈強な体格のOBが居並ぶ中、どちらかといえば華奢で、常に温厚そうな微笑みを讃えておられ、ご挨拶もいつも控えめな印象でしたので、世界的なパイオニアだと聞いてはいたものの、そんなに偉い先生という感じがしていませんでした。しかし、私も大人になり、何度かご講演を拝聴したりしていると、世界初の技術開発を発表するためにアメリカまで船で渡られた逸話や、研究に賭けた情熱を表す話の内容とともに言葉の端々に漏れ出る負けん気の強さ、時折見せる鋭い眼光に、本当の芯の強さというようなものが感じられました。

 高田先生94歳、和賀井先生96歳と、お二人とも大往生でした。コロナ禍にあって、いずれも葬儀はご家族だけでひっそりと執り行われたと伺いました。

 その存在がなければ今の私はないと言える大きなご恩をいただいた師を、相次いで亡くすことになり、改めてそのご遺志をしっかりと継承し、発展に結びつけて行かなければという意を新たにしました。そして、私自身も、次に続く人たちから、「この方がおられたから今の私がある。」といってもらえるような、そういう存在にならなければと思います。

2020年は、世界がこれまでとは違ったものになった年でした。そしてその変化は、人類の内部からではなく、ウイルスという外的要因によってもたらされたもので、われわれはまだどう対応するかを模索している段階です。このような変化がある時には、それをどう味方につけるかに成功することが、今後の主導権を握れることにつながるでしょう。過去を振り返るのではなく、変化を受け入れつつ前に進めるように、心を新たに邁進したいと考えています。