FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

『内なる優生思想』批判と、『中絶は罪』だと規定する思想

タイトルが違いますが、前記事の続きのようなものです。

前記事で次に書きますと予告した部分について、まずはちゃんと述べる必要がありますね。

内なる優生思想について

・NIPTが優生思想を助長するのではないかという危惧、障害者とともに生きる社会の実現とNIPTの普及とは相反するものという考え(何人かの演者に通底している印象でした)

・内なる優生思想

 今回のシンポジウムでも、冒頭からまずは優生学に基づいた検査や処置の歴史や、優生保護法とその問題点が、現在も重い影を落としていることが語られ、出生前検査・診断について議論される際には、かならず優生思想の危険性と結び付けられます。しかし、少なくとも現在の日本では、国家として優生政策を実践しようという流れが生じることなどありえない状況であることも確かだと信じています。出生前検査についても、国策として義務化する話にはなりえないです。

 しかし、そうではあっても、検査を受けたいと考える個々人の心の(頭の)中には、『内なる優生思想』が潜んでいて、その蔓延がひいては社会全体へのひろがりにつながる危険性があるという危惧が表明されます。そして、その『内なる優生思想』は撲滅しなければならないという強い信念のようなものになります。

 もちろん、個々の人の心に潜むかもしれない、そしていつ大きくなるかわからない優生思想的思考は、これを無くしていける社会を作ることが目標になります。それは大事なことです。しかし、自由主義の世界では、個々人の能力に応じて評価され、争われ、選別されながら生活基盤を形成していく仕組みがあります。わたしたちは子どもの頃から、そのような環境下に置かれ、優劣を競い合う現実の中で、生きるために優位な立場を目指すことになります。

 結局、社会全体としては、優位な立場を手に入れた人が、そうではない人を助けつつ共生していくことを実践しなければならない中で、個々人は助けられる側よりも助ける側を目指すことになるのです。このように個人が優位な側を志向することは優生思想的なのでしょうか。

 「弱者は淘汰されなければならない、助けなければならない対象が少ないほど、よりよい社会になる。」という考えは、優生思想でしょう。だから、皆が検査を受けて、障がいを持って生まれてくることを無くすようにすべきという考えは、優生思想です。しかし、個々人の立場で、自分の子どもが障がいなく生まれてきてほしいと願うのは、優生思想ではないでしょう。では、障がいを持って生まれてくることがわかった場合に、そのことを避けるために妊娠中絶を行うことはどうでしょう?

 障がいを持つ子をみつけて、全員生まれてこないようにしようと考えたなら、それは優生思想です。しかし、病気や障がいがないことを確かめたくて検査を受けることそのものが、『内なる優生思想』の発露でしょうか。検査を受けようと考えている人は、心の内に優生思想を忍ばせていると非難されるべきなのでしょうか。

 私は、検査を受ける人は全て、純粋に少しでも安心を手に入れたいと願っているだけだと強弁したいわけではありません。いろいろな考えの方もおられるでしょうから、内なる優生思想を持つ方もおられることと思います。しかし、そういう考えを強く持っている人は、妊婦さんたちの中にはそう多くはないことも実感としてわかります。一方で、そのような思考を完全になくすことも難しいだろうなとも思います。また、世界に目を向けると、文化の中でそういう思考が強い国や地域もあると思います。

検査を受けることへの同調圧力を危惧する意見

 ダウン症候群のお子さんを連れている親御さんが、「なぜ検査を受けなかったの?」という心無い質問を受けることがあるという話を耳にします。出生前検査の普及を制限したい人たちの中では、よく語られる話の一つです。その質問の奥には、言下に「きちんと検査を受けさえすれば、産まなくてもすんだのに。」という気持ちが込められています。優生思想の発露です。言われた方はたいへん傷つきます。「こんなにかわいいわが子を生まれてこなくても良かったと言われたくない。」「大事な命なのに。」「こんなに頑張って育てていて、毎日少しづつだけど進歩しているのに。」という思いもあるし、これまで育てて来た過程でいろいろな不安や心配もあって、また将来についても不安が拭えない部分もある中、「指摘されたとおりきちんと検査を受けておけば、こういう心配を抱えなくても良かったのかもしれない。」「周りの人たちにも迷惑をかけている。」などと自分を責めたり、しかしそう考える自分に対しても目の前の頑張って育ってきた子どもを否定しているように感じて罪深いとまた自責したり、人を葛藤に陥れます。これほど辛い言葉の投げかけはありません。

 こういうことがなくならない限り、出生前検査は普及させられないとおっしゃる方もおられます。出生前検査の普及に警鐘を鳴らす目的では、たいへんわかりやすく、かつ印象深い話だと思います。しかしあえて私は考えます。こういうことって、ほんとうになくせるのだろうかと。こういった事例に限らず、いろいろな局面で、人から心無い言葉を投げかけられる経験は、多かれ少なかれ誰にもあるんじゃないかと思うのです。この国で暮らす女性や妊婦さんなら特に、そういう経験は多いのではないでしょうか。仕方がないから我慢しろと言っているのではありません。もちろん、そういうことはなくなるべきだし、減らす努力はできるはずなので、各人が良い流れになるように努力すれば、そういう人に遭遇する機会は減らすことができるでしょう。でも、なくならなければならないと考えるのはちょっと無理があると思います。世の中にはいろいろな人がいるのです。だからむしろ、なくなることを目標にするよりも、堂々と反論できることを目標にしたほうが良いと思います。「私はどのような障がいがあろうと大切な命なので、自ら考えて主体的に検査を受けることを選択しませんでした。」とか、「検査は受けましたけれど、出産を選択しました。」と言えるようになることを目指すべきです。『検査を受ける人もいるけど、受けない人もいる』があたりまえになればよいのです。どちらが多数派・少数派ということもなく。

 出生前検査を普及させることが、このような言葉を発せられるような問題を減らすことを阻害するとお考えになることもわかります。でもそこを直接的に繋げるのは実はちょっと違うはずなのです。なぜなら、こういう発言に直接的につながるのは、出生前検査・診断そのものではなくて、その結果どういう選択をするかの部分のはずだからです。だから、検査する/しないが本筋ではなく、その先の中絶する/しないが本来議論すべき部分なのです。このような心無い言葉を発する人は、中絶することが普通という感覚を持っておられることと思います。でも、それがあたりまえではなくて、「人には人それぞれの選択があるのがあたりまえ。」という感覚が共有されれば、このような言葉はなくなるはずです。そして、このような発言をする人は、了見の狭い特殊な思想を持つ人として、社会の中で非難の的になることでしょう。ただ、だからといって、中絶が減るかどうかはまた別問題です。中絶が減ることを目標にするよりも、「中絶する人は多いけれど私は産む。」あるいは「中絶する人もいるし、産む人もいる。私は産む方を選択する。」と言えることを目標にすべきです。だから逆に、「産む人が多くなってきたけれど、私は中絶を選択する。」があってもいいと私は思います。

中絶を忌み嫌うがゆえに検査自体を否定する医師の存在

 中絶を「悪」だと考えている人は、出生前検査について、「中絶につながるから良くない」とか、中絶することが目的で検査をすると考えておられるように感じられることがあります。その流れで、「だから検査をすることは良くない。」という話になります。以下のような言葉を投げかけられたという話もよく耳にします。

「子どもがほしくて不妊治療までして苦労して妊娠したのに、中絶につながる検査を希望するなんて考えられない。」

 問題が根深いのは、このような言葉を、産婦人科医や助産師などの医療従事者から投げかけられることがあることです。検査を希望するだけでもこのような言われ方をするので、中絶したという場合などにはもっと非難の対象になりえるでしょう。中絶した人は罪を背負わなければならないという趣旨の発言を、産婦人科の女性医師から聞いたこともあります。このように、産婦人科医師の中でも、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの考えは必ずしも浸透していません。

 ここには、2つの問題があります。まずひとつは、出生前検査について中絶を前提とした検査だと規定していること。もう一つは、女性のリプロダクティブ・ヘルス/ライツが蔑ろにされていることです。

 出生前検査の先に、人工妊娠中絶の選択が存在するのは事実です。だからといって、異常を見つけたら中絶したいという考えが検査を受ける動機になっているかというと、必ずしもそうではありません。むしろ多くの人は、何も見つからないことを祈っていて、あるいは問題を指摘されることがないことを信じていて、その先のことは二の次であることが多いと思います。実際に異常を指摘されてはじめて、その先の選択肢に向き合うことになります。そうならないように事前遺伝カウンセリングがあるという意見もあるかもしれません。もちろんそれはそうなのですが、事前の遺伝カウンセリングで向き合うことになる可能性のある胎児の問題について、しっかり把握できるかというとそれは無理だと思います。

 出生前検査で見つかることには、いろいろなものがあります。特に超音波検査で指摘される問題には、簡単に評価できないものもあります。単純に異常がある→中絶を考えるという話になるものではありません。今回のシンポジウムの議論でも、そういった超音波検査とそれによって見つかるさまざまな問題・疾患や、治療の可能性と治療への期待、予後予測など簡単に結論が出ないケースなどについては、あまり議論の俎上に上ってきませんでした。むしろ、そういったさまざまな問題が出生前検査・診断の現場に存在していることがあまり眼中にないのではないかとさえ思えるほどでした。しかしそれも無理はありません。なぜなら、多くの小児科の先生方は、妊婦の診療の現場で、さまざまな胎児の問題が見つかっていることをよくご存知ではないことが多いからです。

 どうしても、出生前診断の議論というと、ダウン症候群と診断して中絶することの是非という話になってしまうことが多いのですが、その背景には、そのほかにもさまざまな胎児の問題が存在していて、妊娠継続と中絶、検査手順や周産期管理、治療方法とそのタイミングなどの様々な問題を考えなければならないはずで、NIPTをどう扱うというのは、出生前検査・診断の課題の中のごく一部でしかありません。全体像を思い浮かべないままにそのごく一部だけをああでもないこうでもないとこねくり回していても、私には空虚な議論にしか思えないところもあるのでした。

出生前検査の前提として、何を伝えるべきか

 だからこの状況の中でわたしたち専門家が、もっと妊婦さんに伝えなければならない情報は何かと考えた時に、ダウン症候群の人たちの生活実態の情報よりももっと手前に、より重要なものがあるのではないかと思います。

 それは、先天性疾患には数え切れないぐらいさまざまなものがあって、中には原因も病名も特定できないようなケースもあり、胎児の時点ではどんなにいろいろな検査を行っても見つけられないものがすごく多いこと。生まれてきて、あるいは育てていく過程ではじめて気づく重大な病気や障がいがある可能性は、ゼロにはできないという事実が厳然と存在していること。しかし、それでも少しでも子どもに問題が存在する可能性が少ないということを確認したいなら、可能性(頻度)の比較的高いものについては、いくつかの方法で確認しておくことはできるし、それが少しでも心配を減らすことにつながるかもしれない。絶対的ではなくても、自分は少しでも心配を減らしたいということなら、検査を受けることを選択できるし、希望者には検査を提供します。ということではないでしょうか。そんな中で、やはりダウン症候群は頻度の高いものの一つだし、年齢が高い妊婦では可能性がそれなりに高まるのだから、頻度の高いものから検査対象として考える中で対象になることは、ごく普通のことではないかと思います。そして、ある種の頻度の高い病気は超音波検査で見つけられることがあるということから、胎児を観察する目的で超音波検査が日常的に用いられていることが容認されているのではないのでしょうか。

超音波検査を用いて、日常的に出生前検査・診断が行われている

 母体保護法上の人工妊娠中絶の要件に胎児異常は含まれていないから、出生前診断で胎児の異常を見つけて中絶するのは良くないというなら、わたしたちが日常的に行っている超音波検査は、良くない検査ということになってしまいます。NIPTを規制しても、超音波検査でさまざまな問題は見つかってきます。ダウン症候群は超音波による検出率は決して高くはありませんが、何らかの特徴をもとに疑いにつなげることが可能です。先日も妊娠初期の胎児にみられた複数の特徴から、疑いを強く持ち、絨毛検査で診断に至ったケースがありました。18トリソミーや13トリソミーは、当院の妊娠初期超音波検査でかなりのものが診断可能です。NIPTを行うことのできる施設を制限することに一所懸命な人たちは、その他の検査の普及をどのように捉えておられるのでしょうか。そして、どこよりも専門的な知識と経験をもとに、しっかりとした遺伝カウンセリング体制を整えて検査を扱っている当院で、NIPTだけが扱えないといういびつな状況がもう何年も続いている状況を、そしてその状況にわたしたちが耐えている間に、なんの知識も経験もないような医師のクリニックで数多くのNIPTが“安易に”扱われることがどんどん増えていることについて、どうお考えなのでしょうか。

 最後にもうひとつ、今回のシンポジウムでも、妊娠中絶に言及する際に、『妊娠中断』という表現が多く用いられていました。なぜ正式な医学用語である『妊娠中絶』いう言葉を使わないで、『妊娠中断』と言いかえるのか。以前から問題視していますが、自分たちの心(頭)の中に、『妊娠中絶』は、(ハリー・ポッターにでてくるヴォルデモート卿を『例のあの人』と呼ぶように)はっきりと口にしてはいけない言葉だという感覚があるのではないかと感じます。産婦人科のお医者さんたちは、そういった自分の心に向き合う必要があると思っています。