FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

診断が確定しないうちに人工妊娠中絶を選択することは許されないことなのか。

出生前診断について語る際に、避けて通ることのできないことが、人工妊娠中絶です。人工妊娠中絶は、一定の条件下で合法的に認められており、わが国では年間168,015件(平成28年度厚生労働省衛生行政報告例)行われています。

(ちなみに全体としては、長年にわたり減少が続いています。年齢層別にみると、20歳代が最も多く、この年齢層ではここ数年ほぼ横ばいです。)

胎児に何らかの疾患がありそうだという話になった時に、どうしても頭をよぎるのが、「産んで育てていくことができるのだろうか。」という不安で、その先には人工妊娠中絶という選択もあるという考えでしょう。(なかには絶対に中絶はしないという方もおられます。しかし、検査や、検査についての説明、検査結果についての説明を受ける前には、頑なにそういう発言をしておられた方でも、個々の事例次第で、考えは変化します。)

胎児の診断とそれに基づく人工妊娠中絶を巡っては、産婦人科の医師、とくに胎児診断を専門に扱っている医師ならばいろいろな経験をします。医師としての自分の考えと、妊娠している本人やその夫、またその家族の考えが一致しないことで、辛い思いをすることもあります。例えば、以下のような私の経験に類似した経験を持つお医者さんは多いのではないでしょうか。

今から10年ほど前、私がまだ大学の附属病院に勤務していた時のことです。ある妊婦さんの超音波検査の結果、胎児の心臓に先天性の疾患があることがわかりました。私はそのような方は数多く見てきましたし、何度か超音波検査で確認して診断をある程度確定することができたので、きちんとした専門施設での管理のもと出産し、赤ちゃんについては適切な時期に適切な治療(手術を含む)を受ければ、きちんと治る病気であることを説明し、当時勤務していた病院には小児循環器科医がいませんでしたので、転院先を紹介するべく準備を進めていました。そんなある日、この妊婦さんが夫を伴って来院しました。この夫は突然、「人工妊娠中絶にしてもらいたい。この病院でできなければどこかを紹介して欲しい。」と言い出しました。この時、この妊婦さんは妊娠28週ぐらいだったと思います。私は、「もう法的に妊娠中絶可能な時期ではない。私たちは法に基づいて診療を行っているので、それは不可能。何よりもこのお子さんの病気は、きちんと手術を受ければ確実に治せるし、ごく普通のお子さんと同様に生活できる。」ということを一所懸命説明しました。しかしこの夫は、全く聞く耳を持ちません。「中絶したい。」の一点張りで、取りつく島もありません。話し合いは平行線のまま終わり、その日は引き取ってもらうことになりました。結局その後、その妊婦さんは二度と妊婦健診を受けに来ることはありませんでした。その後どうなったのかはわかりません。

この夫は極端ですが、これに類似した話は枚挙にいとまがありません。例えば妊娠22週未満であれば、母体保護法のもとで人工妊娠中絶が可能ですので、私たちから見ると十分に治療対象となり、かつ完治することが可能な疾患であっても、病気があるというだけで、妊娠継続を断念する夫婦がいます。生まれつき病気があるというイメージは、誠実に説明を行っても覆らないぐらいネガティブな時があるようなのです。場合によっては、私たちから直接説明を受けていない妊婦や夫の親たちから中絶を強く勧められ、それに従っているようなケースもあるようです。これらのケースの中には、いろいろな葛藤があって決断に至ったものももちろんあるはずだとは思うのですが、疾患を持つ胎児・新生児・乳児やその親をしっかりと支えつつより良い治療に向けて努力し続けている医師からみると、“安易な中絶”というイメージになってしまうのです。

そして、このような中絶を経験すると、医師は自分の失敗のように感じてしまいます。自分の説明が悪かったから理解が得られなかった、もっとわかってもらえるように努力すべきだった、何かいい方法はなかったのか、そして、その先には、「余計なものを見つけなければ良かった。」という考えが起こってくることもあるのです。人にはそれぞれの考え方があるし、最終的に導いた結論が医師から見たら理不尽であってもその人にとっては納得の行くものであったならば、それはそれで仕方がない事なのだと割り切ることも大事です。「世の中にはこう考える人もいる。」という事がある程度受け入れられないと、正義感の強い人ほど辛くなるでしょう。特に、割と均一性の高い日本の社会の中で生まれ育ち、その中でもより均一性の高いエリートコースを進んで医師になったような人は、多様な人たちがそれぞれに持っている様々な価値観を素直に受け入れることは難しいと思われます。このような経験を経て、許容の幅が広がる医師もいれば、このようなことにならないようにしようという方向に向かう医師もいます。

いくつかの施設では、超音波を用いた胎児の詳しい観察を、妊娠22週すぎにならないと行わない方針にしているところがあります。明らかに、人工妊娠中絶の選択を避けようとしているのです。万が一検査でなんらかの異常所見が見つかったとしても、中絶の選択がない時期をわざわざ選んでいるのです。「人工妊娠中絶を行うことは、妊婦自身の権利ではなく、あくまでも母体保護法に基づいて指定医師が判断するものである。」という考えに基づいているのでしょうか。明らかに治療困難な重大な疾患が見つかったらどうするつもりなのでしょうか。生まれてきても長くは生きられないような疾患であっても、きちんと産んであげる事が大事という思想なのでしょうか。妊婦健診を受けている妊婦さんは、自分が通院しているところの医師がどのような思想を持っているのかまではわからずに通院していますし、妊婦の管理はどこでも同じように行っていると思っておられるでしょう。まさか通院している施設によって、胎児の何を見ているのかが全然違うなどとは夢にも思わない方が多いのではないでしょうか。

今でも多くの施設では、羊水検査で得られた結果に基づいて染色体核型について説明するときに、男女のどちらであるかについて、伝えていません。X,Y染色体についてだけは、わからないようにして結果を伝えているところがかなりあるのですが、なぜそうするのか私には理解できません。理解できませんと書きましたが、実はある程度はその理由はわかっています。それは、「性別がわかると、それを理由に中絶する人がいるから良くない。」という理由のようなのです。そういえば昔、いつ誰に言われたのかは忘れてしまったのですが、私自身も先輩医師からそのようなことを学んだ記憶があります。この話が産婦人科医師たちの間では広く普及していて、性別を隠すというのが当たり前のことのように思われているのです。

実際にそのような選択をする人がどのくらいおられるでしょうか。ほとんどの方は、ある程度望んでいる性別はあるものの、結果は結果として受け入れて出産に臨まれます。羊水検査の結果胎児の性別を聞いて、望まない性だから中絶するという実例がどの程度あるでしょうか。昔ならいざ知らず、今現在においてそのような実例はほとんどないと思います。そしてもしそれがあるとしたら、その場合には単純ではない事情がある可能性を考えなければならないでしょう。

ある女性は、自分から生まれてくる男児の1/2は重大な疾患を抱えて生まれてくるという遺伝的特性を持っていることがあります。このような場合、できれば健康に育つことのできる子を産みたいという願いを叶えてあげるために、出生前診断を行うことになります。多くの場合、その重大な疾患を持った男の子を出産し育てている、あるいはすでに亡くされた経験から、次の妊娠でもその可能性があることがわかった経緯を経ておられます。このような場合に、胎児の出生前診断を行って、人工妊娠中絶に至ることは罪悪なのでしょうか。このようなケースでは、あまり出生前診断に積極的ではない医師たちの間でも、出生前診断及びそれに基づいた人工妊娠中絶は受け入れられています。では、そのような特殊な疾患もなく、単に性別だけで中絶を検討する人はおられるのでしょうか。

実はそのように性別によって中絶を検討したいという実例を、私自身も数える程ではあるにせよ経験しています。そういう方々は皆、性別に関連した問題で複雑な事情を抱えておられました。自分の子供は欲しいので、不妊治療によって子供を授かったが、どうしても男性という性が受け入れられず、自分の体から男性が生まれてくる事が耐えられないという方がおられました。この方が当初検査をお受けになった理由は、高齢妊娠のために胎児の異常が心配という事でしたので、胎児に染色体異常がない事がわかって嬉しい結果説明だったはずなのに、性別を知って強いショックをお受けになり、説明の場は暗澹たる雰囲気になってしまいました。私は当初何が起こったのか理解できませんでした。遺伝カウンセラーがいろいろとお話を伺って、ようやくこの方の心情とその背景が見えてきました。だから性別は知らせるべきではないという人もいるかもしれません、ではこの方が赤ちゃんを産んでからその性別を知ったとして、素直に受け入れて育てて行く事ができるでしょうか。元気に生まれてきた赤ちゃんを見れば、それまでの葛藤は消えて頑張って育てようと決心できるでしょうか。その答えはわかりません。病気や障害を抱えているお子さんでも、親御さんはしっかりと愛情を注いで育てておられます。しかし、なんの病気も障害もないお子さんでも、親の愛情を受ける事ができず虐待を受ける子どもたちも存在します。わからない方が幸せだとは私にはとても思えません。結局この方は、自分と向き合い、葛藤したのちに、人工妊娠中絶を選択されました。しかし私は、性別を告げたことを間違いだとは思っていません。この方にとっては性別こそが重大事であり、自分がこれから妊娠・出産・育児を続けて行く上で、過去と向き合い、葛藤を超えるだけの準備がまだできていないことを、胎児の性別を知ることをきっかけとして明らかにする事ができたのです。自分の子供が男性であるという事実が、この方の許容力の範囲を超えていたのです。人工妊娠中絶によって胎児の命を絶つという辛い経験をすることになっても、罪の意識を背負うことになったとしても、許容できないものをお腹の中に宿していることから逃れたかったということなのでしょう。

最近、少し気になる事例が何例か続きました。それは、診断が明確でないことを理由に、中絶の選択肢が医師から与えられないという事例です。

一つのケースでは、胎児に心疾患が発見されていました。10年前の私が経験したケースに似ているかもしれませんが、この方は妊娠20週でした。心奇形があるということはわかってはいるものの、明確に診断は明らかではありませんでした。某大学病院で超音波検査が行われましたが、いくつか候補になりそうな病名は挙げられたものの、検査条件があまり良くなかった(胎児の体の向きが観察しづらい状況だった)こともあって明確な診断には至りませんでした。医師からは、「今は心奇形のほとんどは手術で良くなって、しっかり育つので、頑張りましょう。」と励まされるばかりでした。しかしこの方は、心配でなりません。妊娠週数からも、万が一状態が悪い場合には中絶も視野に入れて考えられると思ったのですが、そのような話を切り出せる雰囲気ではなかったようです。慌てて、この大学病院に行く前に通院していたクリニックの医師に連絡されました。この医師もびっくりして、自分でももう一度みたいと言う事になり、その足でクリニックに向かわれました。

その医師は、確かに心臓に異常はあるようなのだが、どうもそれだけではなく胎児の姿勢が不自然で気になると感じたようでした。もともと妊婦健診のたびに胎児が観察しづらいと感じていたようで、心奇形についての疑いを持つことができていなかったという負い目の気持ちもあって、この胎児の不自然な姿勢がどうしても気になるということを、大学病院の担当医に伝えました。このことから、単純に心奇形があるだけでなく、もっと別の問題もあって、症候群の診断にあたる可能性も考えなければならないのではないかという考えを伝えたのです。しかし、大学病院ではこの申し出を真摯に受け止めてくれず、また結果が間に合わないという理由で羊水検査も行わないと言われてしまいました。妊婦さんの不安は解消されず、困った医師は、私に連絡してこられたのです。

私は、時間をとってこの方の胎児を細かく観察しました。確かに心奇形がありましたが、大学病院で伝えられたいくつかの病名候補とは違った診断になりました。それだけではなく、心臓は大きくなり、その周囲に液体の貯留が起こり、心不全の一歩手前でした。また確かに胎児の姿勢が普通ではなく、関節の可動域が通常以上に大きいと思われました。それよりも、顔貌の輪郭に特徴があり、また、顎の骨の形も通常とは少し違っていました。発育不全まではいかないながら、発育のバランスもよくない状態でした。やはりなんらかの染色体あるいは遺伝子の異常が関係していると想像されましたので、私たちは羊水穿刺を行う事としました。迅速検査などでなんらかの結果が得られる可能性がある限り、はっきりさせる方法を選びたいという考えがあったからです。

また別のケースでは、NIPTを受けて18トリソミーの疑いがあるという検査結果が出ていました。この検査を行った病院では、遺伝診療部と産婦人科が連携して検査結果の説明や遺伝カウンセリングを行なっていました。産婦人科医は超音波検査をおこない、NTが肥厚しているという所見も得ていました。単にNTが肥厚しているというだけでなく、もう少し皮下浮腫が広がっているという印象があり、もしかしたら妊娠予後が良くない(子宮内胎児死亡もありえる)と考えてはいましたが、この超音波所見から18トリソミーとは断定できませんでした。遺伝診療部では小児科をバックグラウンドとする臨床遺伝専門医が産婦人科医同席のもと遺伝カウンセリングを行いました。

この妊婦さんは、NIPTで18トリソミーという結果が出ていても、その陽性一致率は必ずしも高くはなく、偽陽性も十分にありえるという説明を受けました。妊婦さん自身もそのことは十分に理解していましたし、そうであってほしいと思ってもいました。しかし、超音波で胎児がむくんでいる様子について知らされ、複数の検査でいずれも疑いがあると判断されることについて重く受け止めていました。また、胎児のむくみが比較的強く、出産まで至らないかもしれないという話も心に響いていました。しかし、遺伝診療部の医師は希望を捨てないように勇気づけました。何しろまだ確定したわけではない。やはり羊水検査ではっきりするまでは希望を捨てるべきではない、と。しかし、この妊婦さんは羊水検査まで待てない、そしてもし胎児に本当に明確な問題があって、中絶を考えなければならない時に、胎動を感じていたら決断が辛いとも考えておられました。そこで、より早く確定診断が可能な方法として、当院で絨毛検査を受けることができるという話を産婦人科医から聞き、当院で検査をお受けになることになりました。

私たちはこの話を聞いて、もしかしたら超音波でもっと明瞭に18トリソミーの疑いが極めて強いとお話しできる所見が得られるならば、NIPTの検査結果と合わせて、人工妊娠中絶を決断するに足る情報になるのではないかと考えました。そこで、最初から絨毛検査の予定で来ていただくのではなく、まずは超音波でよく見てみましょうということにしたのです。来院当日、やはりこの方の胎児の浮腫は明らかで、そのほかに鼻骨の低形成、小顎症、臍帯ヘルニア、静脈管血流の逆流所見、単一臍帯動脈がみられ、やはりNIPTの結果と合わせて18トリソミーとほぼ確実に推定できることや、もし18トリソミーではなかったとしても、治療困難な問題を抱えている可能性が十分に考えられる点についてもお話ししました。最終的に侵襲的な検査は行わず、人工妊娠中絶を選択し、娩出後に染色体検査を行う方針とされました。

もう一件似たようなケースがありました。某未認可施設でNIPTをお受けになり、21トリソミーという検査結果が出たことを受けて当院に来院されました。来院時すでに妊娠14週のおわりで胎児頭臀長が84mmを超えており、NTの評価はできなかったのですが、鼻骨が確認できず、左心室内の高輝度結節、小指中節骨の欠損、高輝度な反射を示す腸管、足の指のsandal gapなど比較的典型的と言える所見が複数ありました。このことより、NIPTの結果を補強できる対応する所見があると判断し、あとはご本人の決断でやはりはっきりしてからということなら確定検査(羊水穿刺)を選択されても良いし、そういった検査を受けずに中絶する選択もありえると考え、その見解についてお話ししました。ただし、本当に21トリソミーであったのかの確認は必要だし、21トリソミーであった場合でも標準型か転座型かによってその後に検討すべきことが違って来ますので、流産後でも染色体検査そのものは確実に行っておいた方が良い旨も説明しました。

この方は、ある合併症をお持ちの妊婦さんで、その合併症の関係で通院されていた大学病院に相談に行かれたのですが、ここまでの経緯と当院における見解をお伝えしても、そこでは羊水検査で確定しないと妊娠中絶はするべきでないと強く言われてしまいました。

これらのケースから垣間見えることは、多くの医師は、染色体検査による確定診断がないことには人工妊娠中絶は行ってはいけないと断定的に考えているようだということでした。もちろん、あまりにも不確実な検査結果やそれほど明確でない所見をもとに、決めるわけにはいかないと私も考えていますし、そのようにお話しするケースも多いです。しかし、NIPTの結果に複数の典型的な超音波所見という組み合わせなら、そのような選択肢があっても良いのではないかと思います。(異論もあるかもしれません)

印象としては、お医者さんたちはあまりにも画一的に硬く考えすぎていないかと感じます。“安易な中絶”に加担してはいけない、という気持ちが強すぎるのではないかと感じます。世の中には、ただNTがある程度厚いというだけで、「これはなんらかの障害が残るに違いない。」といったような曖昧な説明で中絶を勧める医師もいて、そのような対応は困ったものだと思っていますが、それとは逆に中絶に慎重なお医者さんは、「そういう医師になってはいけない。」という考えが強いのでしょう。正義感が強いのだろうとは思うのですが。

しかし、胎児に異常がある可能性だけを伝えて、しかしその異常がどの程度のものなのかについてはあまり言及せず、ただただ頑張って産み育てるように勇気づけるのは、医師の思想が色濃く入り過ぎていないかと感じます。治療できる可能性があるものならば治療したいという気持ちは、医師ならば誰でも持つことは理解します。しかし、どんな状態でも積極的に治療したり、なんとか生きながらえることのみを目標にすることだけが正義でなのでしょうか。

もう一つ、もしかしたら日本の教育現場で、「命を粗末にしてはいけません」という文脈の中で、人工妊娠中絶が“よくないこと”というイメージを植え付けられていないか、という想像もしています。人工妊娠中絶を選択することや、それにつながる検査を受けること自体について、罪深いことと感じている人が少なからずおられることを日常的に感じているからです。自分のお腹にいる胎児が本当に問題なく育つのか、という心配がありながら、そのことを確認する検査はともすれば中絶につながるので、胎児の異常があったら中絶しようという考えを持つことはよくないことと思うと、検査を受けること自体に罪の意識が伴う。という状況に直面している妊婦さんたちに出会うことが良くあるのです。医者だって、子供の頃から同じ教育を受けているはずなのです。

「命を大事にすること」を教えることは必要なことと思うのですが、ではその「命」の明確な定義はあるのか?特に胎児に関しては、いつの時期からが「命」なのか?「命」になる前の段階について「命の萌芽」なので尊重しなければならないという意見もあるが、「命」と「命の萌芽」とは、全く同列に扱えるものなのか?いろいろな疑問が湧いてきます。「命」は大事ということは簡単だし、絶対的だし、誰も否定できないけれど、教育の現場では、このような疑問を常に頭に置いて取り組んで欲しい、と私は思うのです。