日本では、厳密に制限されて臨床研究が続いているNIPTですが、そうこうするうちに海外では多くの国で標準検査の位置付けで行われるようになっています。報道などでは常々「命の選別」のための検査という表現で批判的な語られ方をしているわけですが、本当にそうなのでしょうか。
この種の検査が開発され、導入が話題になるときには必ず、当事者、特に現在ダウン症候群のお子さんを育てておられる親御さんからの懸念の声が上がります。マスコミが好んで取り上げるのは、以下のような声です。
・ダウン症候群を持つ人たちの生命が軽んじられる・否定されることにつながる。
・ダウン症候群を持つ胎児が妊娠中絶によって生まれてこなくなると、障害を持つ人たちはよりマイノリティの立場に追いやられ、社会的にも顧みられなくなる懸念がある。
この懸念は世界共通のものでもあり、検査の導入時には必ず話題になるものですが、我が国では特にこういった側面が強調される傾向にあり、個人的な事例とともにクローズアップされることが多いように感じます。この傾向は、出生前診断に限らずいろいろな点で見られ、最近の話題では子宮頸癌ワクチンをめぐる問題がわかりやすい例だと思われます。政策判断や報道が、事実やデータよりも情緒に基づいていることが多いのです。
しかし、実際にダウン症候群の子さんを育てておられる方が、皆同様に検査に否定的なのかというと決してそうではありません。今育てている子はかわいいけれど、次の子も同じダウン症候群だとそれはそれで心配なので、出生前検査を受けて確認したいという方はたくさんおられます。
では実際に出生前検査の導入が、いわゆる「命の選別」にどの程度寄与しているのか。これを調べた研究論文が昨年末、国際出生前診断学会の学会誌 Prenatal Diagnosisに掲載されました。
この論文は、世界各地におけるNIPT検査後の妊娠転帰を論じた著作物をレビューするとともに、英国およびシンガポールにおいてNIPT検査によってダウン症候群の疑いと判断されたケースを追跡した調査研究をまとめたものです。
これまでに判明していた事実は、NIPTの導入によってダウン症候群を持つ胎児の診断は増加し、同時に診断のための侵襲的検査(絨毛採取や羊水穿刺)が行われる率は劇的に減少したということでした。
この研究で新しく判明したこととして、NIPTによってダウン症候群(疑い)と判定されたケースにおける妊娠中絶率は、地域によるいろいろな違いはあるものの、NIPT導入以前のそれと比べて変化がないか、むしろやや減少していました。やや減少していた場合でも、このことによる出生率への影響はごくわずかであったとされています(ただし、本当の影響についてはより大規模な集団ベースの研究が必要であるとしています)。
妊娠中絶を選択する数と比べると比較的少数ではあるけれども、それなりに多くの人が、NIPTによってダウン症候群の可能性を指摘されても(その後の確定検査で診断がついても、あるいは確定検査を回避して)、妊娠を継続し出産に至っていることが判明しました。
注意すべき点として、調査が行われた国や地域による違いが存在していることがあります。例えば、NIPT導入前の調査における出生前にダウン症候群と診断がついた場合の妊娠中絶率は、米国において67%、英国、オーストラリア、中国では90%以上、台湾では2001年のレポートにおける中絶率は67.5%でしたが、その後出生前検査が広く普及するに従って、出生率は2001年の48.7%から2010年には6%に減少しています。
過去の調査で、人口と発生率から考慮して生まれてくるであろうと予想される数より、実際に生まれてきた数はどのぐらい違うかという数をみると、米国で30%減少(2007年)、オランダで50%(2015年)、イングランドとウェールズで48%(2008年)、オーストラリアで55%(2004年)、台湾で94%(2010年)、中国で55%(2011年)というデータがありますが、この数字は文化的背景や行政サービスによる違いもさることながら、どの程度出生前検査が普及しているかによって左右される可能性があります(台湾の例を見ると顕著です)。そうすると、今回の調査でNIPT導入による差があまり見られなかったのは、それ以前にすでに(検出感度は低いとしても)ダウン症候群を検出する検査が十分に普及していた結果なのかもしれず、この種の検査がほとんど普及していなかった我が国に、そのまま当てはめることのできない研究結果であるともいえるでしょう。
この論文では、NIPT以前についてはダウン症候群と診断された場合の率、NIPT導入後はNIPTでダウン症候群の疑いとされた場合の率を採用して比較しています。NIPT導入前後でどの程度検査の普及・浸透の度合いに差があるかによっても左右される部分があり、この点についても注意が必要でしょう。
しかし、少なくともこれまでの調査を見る限りでは、ダウン症候群を持つ本人やその家族が、ダウン症候群の仲間がどんどん減ってしまって、世間から顧みられなくなってしまうというような恐れを強く抱くほどではないとは言えるのではないでしょうか。
ダウン症候群の出生数そのものは、1990年代から2000年代はじめの数年までは、どの国や地域においても増加傾向にありました。世界の先進国においては出産年齢の高齢化が一般的傾向ですので、当然のことでした。最近の新しいデータはあまり確認できていないのですが、英国では国を挙げてのスクリーニングプログラムを導入することによって、出生数が減少に転じているという話もあるようです(ただしその減少はごくわずかであるようです)。他の国ではまだ増加傾向にあるようですが、その増加傾向はわずかなようで、出生前検査が行われなければもっと増加していると考えられます。我が国では、出生前検査を受ける妊婦がかなり少ない割合であることより、先進国の中ではその増加傾向は突出しています。我が国の周産期医療は、世界的にみてもかなり高い水準にあり、病気を持つ赤ちゃんもしっかりと生まれてきて治療も受けられます。おそらく日本は、ダウン症候群の赤ちゃんが多く生まれる国と言えるでしょう。
ダウン症候群の赤ちゃんが増えた方が良いのか、減った方が良いのか、私は現状では正しい答はどこにもないと思います。医師の立場としては、もし染色体異常に対する根本的な治療法が発見されたならば、明らかに治療可能となるわけですから、染色体正常児と同様の妊娠管理が可能になると考えます。根本的治療でなくても、かなり有効な治療があれば、積極的に出産を考える人も増えることでしょう。治療法がそれほど進歩しなくても、社会的な受け入れ態勢が整っていればいるほど、産む選択がしやすくなるでしょう。しかしだからといって、皆が産まなければならないとも考えていません。産み育てるか、中絶を考えるか、それは妊娠している本人の状況、周囲の状況、医学の進歩、参加しているコミュニティや社会のシステム、その他諸々の状況に左右されるでしょう。このことは、ダウン症候群に限らず、ほかの病気を持った胎児にも言えることだし、もしかしたらなんの問題もない胎児であっても、妊婦の立場によっては考慮しなければならない問題だと考えます。
出生前検査・診断に積極的になるかならないかの問題は、ダウン症候群のことだけを考えていては本質から外れてしまう場合があります。世の中にはもっといろいろな先天性疾患があり、それらの中にはもっと解決が難しい問題を抱えている方や家族がおられます。そういった様々なケースにも目を向けると、出生前診断そのものを否定的に捉える論調のなかには、短絡的かつ浅はかな考えに基づいた感情的な部分が散見されるように感じます。日々いろいろな心配を抱えている妊婦さんと向き合う中で、私たちはもっと出生前の検査・診断に対する理解を深めてもらえるよう、努力していかなければならないと考えています。今後、この点についても論じていきたいと思います。