FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

当事者の声を反映させることの難しさ。カミングアウトのハードルを下げられると良いのだろうか。

 以前に、出生前検査についての主に医療従事者側の意識に触れた際に、過去の仕事を回想した記事を書きました。

出生前検査を普及させない方が良いという声に、癌告知の過去を想う。 - FMC東京 院長室

病気や障害を抱えながら生きる人々と、治療やサポートの提供者として直接向き合う仕事をする立場で、人々の意識や社会の有り様とその変化について、見聞きしてきたし考え続けています。

最近、癌と遺伝との関連が話題に上ることが多くなり、検査や治療の分野で新しい発見が続くようになってきました。そんな中、我が国でもいまだいろいろと未整備な面はあるものの、遺伝子変異の有無に基づいた臨床の実践が行われるようになり、当院でも相談を受けることが増えてきています。

そんな中、癌患者として生きておられる記者さんの以下の記事に接する機会があり、たいへん感銘を受けました。良い記事ですので、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。

www.asahi.comさて、今回論じたいことは、この記事の内容に直接関係することではありません。しかし、こういった話の中に、いつも私は自分が今取り組んでいることにつながるものを感じます。ついつい何でも自分の仕事に結びつけて、考えが浮かんできます。そういった頭に浮かんできたことを書いていきたいと思います。

 

まず、以下の部分です。

> このころ、日本のがん医療は「海外で使える薬が使えない」「地域によって受けられる医療の差が大きい」といった多くの問題があり、患者や家族たちは苦しんでいました。

これは全く今の出生前検査の現状と同じです。「海外で受けられる検査が日本では受けられない」「地域によって受けられる相談や検査へのアクセスの便利さの差が大きい」という現状があります。

そして、以下の部分、考えさせられます。

> 読者の方々から多くの励ましや体験談を頂き、勇気をもらいましたが、「私は周りに話せません」「知られたくない」「隠している」という人がとてもたくさんいました。「がんにかかったことを公表するなんて勇気がありますね」という言葉もありました。

> 「なにか悪いことをしたから病気になったのでは」「生活が乱れていたからがんになった」「先祖の供養が足りない」「うつるかもしれない」などと、根拠のない偏見を持つ人がまだ多かったのです。「もうすぐ死ぬ人」という視線を浴び、周囲の人から避けられてしまう心配もありました。

「日本人の2人に1人はがんになる」「3人に1人はがんで死亡する」と言われる時代、癌はかなり身近な病気として捉えられているものになっているだろうと思っていましたので、癌患者であることを公表することがこれほどまでにハードルの高いものだとは感じていませんでした。しかし、医療従事者としての立場を離れて普通に生活している人たちはどうだろうかと考えてみれば、やはり抵抗感は強いのでしょう。死に繋がるという事実は重いし、普段死を身近に感じながら生きている人はそういないわけでしょうから。

誰でも可能性があるような病気ですらそうなのですから、より頻度が少なく、あまり知られていない先天性の疾患、特に遺伝と関連した疾患になると問題はより深刻です。好奇の目を向けられ、あらぬ疑いをかけられ、サポートも少なく不便を強いられる中で、ひっそりと隠れるように暮らしておられる方も多いことと思います。病気が珍しいものであればあるほど、支え合う仲間を得ることも困難です。声を上げることも能わないし、もし声を上げることができたとしても、それが大きな力に変わることは容易ではありません。カミングアウトのハードルは、想像を超える高さでしょう。

以下の部分も大事な、しかし最も難しい部分です。

患者は、がん医療やがん政策の当事者であるはずです。でも、それを決める会議のメンバーには入っていませんでした。

 基本法成立の後、朝日新聞に寄せた文章で山本さんは、「政策決定に患者らが関与できる意義は大きい」とし、基本計画には「患者の視点」を積極的に採り入れるべきだ、と主張しました。

 2007年4月以来、2年おきにメンバーが替わる協議会に参加した患者・家族の委員は、これまで20人を超えます。

これは、がん対策推進協議会の話です。このように相手が癌のような病気なら、目標も明確で、癌をなくすことを第一義に考えれば良いでしょう。癌は患者の体の中で部分的に生じた変化ですから、これを対象にする事は本人にとっても周囲の人にとっても、同じようでわかりやすいです。患者・家族の意見を積極的にとりいれていける体制づくりは、意義のあることと考えます。

この点、先天異常の分野は少し事が複雑になります。なぜならここで取り扱う問題の多くは、後天的に生じる部分的な変化ではなく、受精卵や胚の段階においてすでにある全身的なものだからです。たとえば染色体異常は、異常を持つその人全てを現すものになります。つまり、癌を叩くというような発想とは、全く別の問題になります。

出生前検査・診断に関連した話し合いに当事者を加えるという点についてはどうでしょうか。

実際に検査を行う場は、主に産婦人科外来である事が多いわけですが、産婦人科医がみな遺伝学の知識を持っているわけではないにも関わらず、開発された検査は容易に普及してしまい、ともすれば安易に扱われる恐れがあることについての懸念は常に語られてきました。主に妊婦を中心とした診療を行い、出産までの経過をみている産科医と生まれた後の子どもと向き合っている小児科医の意識の違いも大きい上に、人工妊娠中絶の問題も絡んで、ことは複雑になっています。しかしこの問題は、この国の社会の問題として認識されてきましたので、医師だけでなく、法律家や生命倫理の専門家なども加わって議論されてきました。そのような場において、当事者側の代表者も加わる事が実際に行われてきていると認識しています。ただし、ここでちょっと注意が必要だと思う点は、当事者側の代表がダウン症候群の本人及び家族の団体である事でしょう。もちろん、出生前検査の対象として常に話題に上がるものはダウン症候群ですし、対象になるものとしても最も数の多いものであることは間違いありません。しかしながら、ある意味メジャーなダウン症候群と違って、あまり知られていない疾患の方や、団体に加わることのできない方々も多くおられることを忘れてはいけないと思います。

また、もう一方の当事者としての「妊婦」の存在が忘れられているようにも感じています。妊婦さんやその家族が、これから生まれてくる赤ちゃんに病気や障害がないことを望むことはごく自然なことだし、それを確認して安心を得たいという気持ちを持つことは当たり前のことだと思います。しかし現状は、そういった考えを持つ事が不謹慎なことのように語られ、検査方法があることを知りつつそれを受ける事が許されない状況があります。染色体異常を持ちながら生まれてきた人たちの権利や生活を守ること、共存していけるより良い社会を作ることが大事なことである一方で、これから子供を産もうという一人一人の妊婦が心配を減らして出産に臨めるようにすることも、大事な事だと思います。この二つのことはもちろん関連があることではあるけれども、きちんと分けて考え、いずれにも取り組んでいくことは不可能ではないはずです。

妊娠は一時期のことで、出産によって終了します。妊娠中の不安なども多くは時間が解決することになります。妊婦が高齢であることを心配していたとしても、結果的にはそのほとんどの人が、元気な赤ちゃんを無事に出産します。検査を受けることができず、心配で気が気でなかったとしても、その時を通り過ぎればその心配の多くは解消されます。一方で、障害を持って生まれてきた赤ちゃんには、その後の生活があります。当事者としての生活は生きている限り続きます。その親も同様です。結局、当事者としての年月や意識の重みが違ってきます。一方の当事者は当事者としての問題をずっと抱えています。もう一方の当事者は、一部の人を除いて短期間で当事者ではなくなります(一部の人は前者の当事者に加わることになるかもしれません)。だからといって、当事者として辛い立場に置かれていることに変わりはないはずです。現在の議論の中で、実は妊婦さんたちの声が、一番取り上げられない形になっているように感じます。

産婦人科医は普段診ている妊婦からのニーズを肌で感じているし、小児科医は日々病気や障害を持つお子さんたちと向き合っているので、それぞれの立場を代弁しているという意識は持っていると思います。しかし、どう考えても医師の立場・視点は代弁者たり得ないことを、私たちはよく認識しておかなければならないと思います。

いろいろな方々を見ていると、今一番窮屈な思いをしているのは、出生前検査を受けた結果、人工妊娠中絶を選択した人たちなんだろうと思います。社会はなかなか変わらないから、病気や障害を持つ方達やその家族も、窮屈な思いを強いられていることでしょう。先に述べたようにカミングアウトも容易ではないと思うし、まだまだ不便を強いられることも多いでしょう。しかし、徐々にではあるけれども人々の意識は変化し、社会の受け入れも昔よりは良くなってきていると思います。ところが、その一方で、人工妊娠中絶に対する意識というものは、あまり変化がないように感じます。ニュースなどでも出生前検査の結果、何%が中絶したという話題は、必ず否定的なニュアンスを込めて語られます。「中絶することは良くないこと」、という意識が確実に根付いているように感じられます。このため、中絶を経験した方がその経験について語る場もなく、罪悪感を持ち続ける方も多いです。この点についても、もう少し考えていかなければならないと思っています。人工妊娠中絶は中絶する本人にとっても家族にとっても辛い経験、辛い選択です。しかし、だからといって産む選択をすることが必ず正しいとも言えないケースが多々あります。大きな葛藤を経て、心身ともに負担を負いながら、経験した中絶のことや一時期自分のお腹の中にいた胎児のことを心に抱えつつ、前に進む人たちをこれまで何人も見てきました。そういった経験をした方々が、自身が体験したことをしっかりと人に伝えることができる。そういうカミングアウトも可能になれば、次に同じ経験をする人の葛藤は少しでも和らぐようになるのではないだろうかといつも考えます。本人にとってはすごく勇気の要ることだと思いますが、いつかそういうことだって語れるような社会になることを、現実化していけたらと考えています。