FMC東京 院長室

                                                                  遺伝カウンセリングと胎児検査・診断に特化したクリニック『FMC東京クリニック』の院長が、出生前検査・診断と妊婦/胎児の診療に関する話題に関連して、日々思うことを綴ります。詳しい診療内容については、クリニックのホームページをご覧ください。

寛容さとはなんだろう - 人類遺伝学会第64回大会および全国遺伝子診療部門連絡会議に参加して

 先日(2019年11月6日〜10日)、日本人類遺伝学会第64回大会および、全国遺伝子診療部門連絡会議に参加してきました。日本人類遺伝学会は毎年参加している学会で、当院から2名の評議員(中村靖・田村智英子)を出しています。もともとの私の専門領域である産婦人科に関連する話題だけでも、出生前診断、着床前診断、婦人科腫瘍に関連した遺伝学的検査やこれに基づいた治療戦略と、主要な各分野全てに関連する問題があるので、近年急速に学会の規模が拡大しつつあります。特に、私たちの診療に密接に関わるNIPTの扱いに関して、日本産科婦人科学会のカウンターパート的立場にあるため、この学会で議論されていることや、理事会の動きなど、常に注視している必要性が高く、私たち自身もしっかりと発言していくことが必要と考えています。

 さて、そういう気持ちを持ちつつ、発表演題も用意(今回は中村が口演2題、田村がポスター1題とランチョンセミナー講師、international session座長)して、開催地である長崎に向かいました。

 出生前診断の話題では、シンポジウム1「出生前遺伝学的検査の検査体制はどうあるべきか」、シンポジウム6「周産期における遺伝医療の最前線」などが組まれており、このブログのテーマとも合致するので、この話題を中心に報告したいと思います。私たちは、この他にも腫瘍の話や着床前の話などにも関わっているのですが、ここでは省略します。

 

盛り上がらないシンポジウム

 こういう題名をつけると不本意な人もいるのかもしれませんが、はっきり言ってそう感じました。無理もありません。この学会には、どちらかというと出生前検査の普及に関して抑制的な考えの人が中心的立場を占めてきた歴史があるのです。今回は、大会長が産婦人科医師(増崎英明長崎大名誉教授)だったので、それでも産婦人科側の立場に立った座長や演者が選ばれていたのですが、他の学会でもいつも同じようなメンバーで、そしていつも消化不良に終わっているので、どうも出生前検査・診断の分野で、産婦人科を代表する立場にいるとされている方たちの中に、ダイナミックな推進力を発揮したり強い意見表明をしたりできる人がいないのではないかと感じます。日本産科婦人科学会の中心にいた偉い先生方(出生前診断を本来の専門とはしていない人が多い)は暴走してしまうし、人類遺伝学会では抑制的意見に抗えないし、なんともうまくコンダクトできないまま現在の停滞を招いた人たちが、もし次の展開でも指導的立場でいたいなら、なぜ上手くいかなかったのか、自分たちのやり方のどこが良くなかったのかについてしっかり振り返って、その反省の上にやり直すことを考えないと、自分たちは間違っていなかったしきちんとやってきたという自己満足だけして、上手くいかなかったことを人のせいにしていてはダメだと思います。

 

科学的考え方をなぜ放棄するのか

 学会参加してから、この文章を書くまでに少し時間が経ってしまったため、その時に考えていたことの記憶が少し薄れてきました。書きたい内容を思い出せるように、表題のみ列挙してあったのですが、この部分、何を書こうとしたのか今一つ記憶が曖昧になっています。ということでこの項目は、割愛します。また思い出したら別に書こうと思います。

 

自分の信条に反する考えを受け入れる

 人類遺伝学会終了後に必ず開催される、全国遺伝子診療部門連絡会議にも参加しました。この会議には毎回、個人参加しています。私たちの施設もその活動内容から、ぜひ維持機関施設に参入をと考えたのですが、維持機関会員としての加盟申請をしたところ、「クリニックだから」という理由で却下されました。この件については、またいずれ話題にしたいと思っていますが、ここでは置いておきます。

 さてこの会議、いくつかのトピックがあったのですが、私は代表者ワークショップ4『出生前診断に対して責任ある対応をするための体制づくり〜全国遺伝子医療部門連絡会議構成施設が貢献するために必要とされるもの』に参加しました。ここでは複数のグループに分かれてディスカッションし、提言を作成する作業を行いました。様々な立場の人が一つのグループで話し合い、結論を導きます。私のような産婦人科医もいれば、小児科医、遺伝カウンセラー、基礎系研究者など、立ち位置の違うメンバーが一つのテーブルを囲んで話し合いましたが、日常的に見ているものの違いがあるために、意見の相違はもちろんあります。そんな中で、少し気になった点を書き残しておきます。

 このグループディスカッションで、話題の中心となったのはやはりNIPTの実施体制でした。私は、このブログにも何度か書き記しているように、他のより不正確な検査は無制限に一般診療として行われている中で、NIPTのみが極端な制限がされていることの異常さを指摘し、ほとんどの人が『陰性』という結果を得ることができる中で、『陽性』という結果が出てしまった人への対応を手厚くする体制を整備すべきで、全ての人に一律にハードルを設けることは適切でない、他の検査とのバランスで考えてももっとこの検査は普及させて良いという持論を述べました。しかし、この論に対しては、何人かの参加者から反対意見が出ました。「現状まだそれは早い、まだ無理なんじゃないか。」という慎重な意見や、「普及させた結果、検査を受けない選択をした人が、周囲の人から同調圧力(『なぜ受けないの?』などと責められる)をかけられたり、障害児を産み育てている人が、心ない言葉(『なぜ検査を受けなかったの?』など)を浴びせられたりするようなことがあってはならない。」というような否定的な意見(このような話は、何かの記事で読んだことがありますが、この検査の議論の際によく出てくる話のようです)がありました。「それでは、いつどのようになったら、どのような段階で検査を普及させるようになるのでしょうねえ?」という問いが別の参加者から発せられた時、この反対意見を述べた方が、「いやー、(この国では)無理でしょうねえ。」とおっしゃったので、私は愕然としました。それって、何も解決しようとしていないじゃないですか。要するに検査の普及について悪いイメージだけ膨らませて、単に検査を普及させたくないと思っているだけじゃないですか。「検査を普及させること=障害を持つ人たちの生存権を否定すること」という単純思考に陥って、障害を持つ人たちに寄り添っている自分の立場を正当化しているだけじゃないですか。この段階から、「無理でしょうねえ」と言ってしまうなんて、この社会を構成している人たちや、これからを担う若者たちに全く信頼を置いていないとしか思えません。でも、NIPTの普及に慎重な意見を述べる人には、こういう人が多いのです。

 「検査を受けない選択をした人が、『なぜ受けないの?』などと言われたり、障害児を産み育てている人が、『なぜ検査を受けなかったの?』と言われたりするような社会にはなってほしくない。」という話は、実際にそういう経験をした方の経験談に基づいている部分もあるのでしょう。でも、それはごく個人的な経験であり、そのような嫌な思いをするようなことは、世間にはいくらでもあるのです。妊婦が薄着をしていると、「冷やしてはダメ、そんな格好信じられない。」と責められたり、やれ出歩くな、食べすぎるな、良いものだけを食べろなど、妊婦に対して余計なお節介を焼いて、時に心ない一言を添えたりするような人は山ほどいます。世の中にはさまざまな種類の人がいますので、こういった事例を全くゼロにすることはできないのです。でも社会の全てがそのような人で構成されているわけではないのですから、この悪いイメージだけを取り上げて、未来を悲観的に語ることで検査を制限しようとするのは、情緒には訴えても根拠としては弱いと感じます。この国の人たちは、どうもこのような情緒的な話に引きずられがちです。

 『なぜ検査を受けなかったの?』と言われるというような言葉の暴力を情緒的に語る人たちは、妊婦健診の現場で出生前検査を受けたいと言った妊婦さんたちが、担当医に嫌な顔をされたり、「そんなことを考えるだけで良くない。」というようなことを言われたり、「うちでは扱っていない。」という一言で冷たく要望を却下されたりしている事実はご存知なのでしょうか。この国では20年近くにわたって、出生前検査の普及が制限されてきた歴史があって、その結果、出生前検査そのものが良くないことのような空気が醸成されてきているのです。ただ単に健康な子どもであってほしいという誰もが普通に持つであろう願いから検査を希望しても、「そこには優生思想的考えが潜んでいる」と非難の目を向けられてしまうことが思いのほか多い現状を、それで良い、そうあるべきとお考えなのでしょうか。

 それだけではなく、妊娠中絶を選択した人が、本当は良くないことなのだからこそこそしなければならない(実際そういう現状です)とか、必要以上に罪の意識を持地つづけなければならない現状を、なんとかしなければならないと感じます。

 検査を受けたい人もいれば、受けたくない人もいる。どんな命も尊いという人もいれば、現実的に育てることは困難だと考える人もいる。産みたい人もいれば、産めない事情のある人もいる。みんなの考えを統一することはそう簡単にできることではありません。全ての人とわかりあえるわけではありません。どうやっても相互理解は無理な人だっています。しかし、そういうさまざまな人が基本的には全て同じ権利を持って生きているはずなんです。私たちは、可能な限りここの考えを尊重しなければならない、自分の信条とは違う信条だからと言って、単純に否定するわけにはいかないのです。

 どんな問題を抱えている子でも、みんなで受け入れて共生していける社会をつくることは、もちろん理想です。そして、それを可能とするためには、いろいろな問題を抱えている人たちを受け入れる寛容さが求められるでしょう。少しでも違っているものを受け入れられない思想を持つ人は、不寛容な人とされます。それは確かにそうなんです。もっと人は寛容になっても良いと思うんです。しかし、そういった人たちを不寛容だと断罪する人たちに対しても、私は返す刀で切り込みたいと思うのです。不寛容に思える考え方を持つ人たちは、なぜそのような考え方を持つに至ったのか、なぜそう考えてしまうのか、その考えのどこが自分とは違っていて、しかしどこは理解できる点なのか、などいろいろと考える余地はあるのではないかと思うのです。自分とは違う考え方をする人たちに対して、「不寛容な人たち」「良くない考え方をする人たち」と断罪してしまう方も、やはりそれは別の意味での不寛容だと思うのです。他人のことを不寛容だと批判する人たちの側にも、同じように不寛容が存在しているように感じるのです。私たちはそれぞれが、本当に自分が正しいのか、もしかしたら自分の考えには間違いがあるのではないだろうか、といった具合に常に視点を変えて振り返る必要があると考えています。

 

教育というワード

 今回議論する中で、ちょっと引っかかったのが、「教育」という言葉でした。

 日本の社会を変革させていくこと、人々の考え方、民族に染み付いたある種の思想的なものを変えていくためには、教育のところから変えていかなければならないという思いがあります。教育には、学校教育もあれば、家庭教育、社会教育などいろいろあります。社会人教育というものもあります。

 この教育というワード、実はあまり良い意味で捉えられないことがあるようです。今回の議論の中でも、「教育が大事」という話が出た際に、「あんまり教育という言葉で言うと、上から目線みたいに思われて反発を食らうことがあるので、別の言葉を使った方が良い。」という発言がありました。その時、ハッとしました。「そうか、教育というと嫌がる人がいるのか。」と感じたのです。教育されるということに抵抗がある人がそれなりにいるのでしょうか。

 『教育』という言葉にはあまり良いイメージがないのでしょうか。何か押し付けられる感覚があるとしたら、それは幼少時から思春期にかけて受けてきた教育に問題があったのではないかと感じます。日本人は、諸外国に比べて成人教育の場に自ら参加する率がかなり低いという調査報告を目にしたことがあります。私たち医学の世界は、学生時代だけでは実践的な知識や技能も十分ではないので、卒後教育は当たり前の世界ですし、日々新しい情報によって更新され続けていく分野なので、幾つになっても教育の機会があります。でも、そうではない日々を送っている人の方が多い上に、何かむしろ教育というものにアレルギー的な反応を示す人もいるのかもしれません。

 そういえば少し前に、あるマスコミ関係の人とお話しした際に、子どもの頃からの教育から立て直さないと、大人になってからやり直すことはすごく困難だという思いから、「しっかり教育していくことが大事。」という発言をしたところ、「知識の足りない人に教える」と言っているようなイメージで捉えられてしまったのか、「なんか上から目線で、気に入らない。」的なことを言われ、すごく反発されたことを思い出しました。自分ではそういう言い方をしているつもりは毛頭なくても、なんとなく医者がいうと、上から偉そうに言っているようにとられてしまうのです。聞いている方にもそういう余計な意識があるのではないかと思うのですが、言い方にそういう気持ちが出ているように感じられるのでしょうか。その時には十分に気をつけないといけないなと反省したのですが、そういう単純な問題ではなく、なんとなく変なプライドを持っている人は多いのかもしれません。私の感覚では、幾つになっても教育され続けることも大事だと思いますけどね。みんなもっと謙虚になって、もう自分は教育されるような立場ではないなどといった横柄な気持ちはかなぐり捨てた方が良いと思うんですけどね。

 

学会から少し時間が経ってしまい、その後にいろいろなこともあったので、今回の文章はなんとなくまとまりのないものになってしましましたが、まあたまにはこういう散文的なものも良いかなと、このままアップします。うかうかしているともう今年も終わってしまいます。来年には私たちにとって、良いニュースが入ってきてくれることを祈りつつ、もう少しやれることはやっておこうと思います。